第一章明治時代の技術が活かされた
世界遺産・アンコール遺跡の修復
カンボジアの世界遺産・アンコール遺跡のバイヨン寺院。その北経蔵の修復が、ユネスコの日本国政府アンコール遺跡救済チームにより、平成11年(1999)9月に完了しました。
このバイヨン寺院北経蔵の基壇修復を可能にしたのが、明治時代に発明された「長七たたき」(人造石)の技術です。
化学的な物資は一切使えないため環境を損なうことなく、尚かつ、従来の工法の約30倍の強度を持つ「長七たたき」。明治時代の技術が、世界遺産を後生に残すために活かされました。この先見の技術の発明者こそ、岩津天満宮・中興の祖、服部長七翁です。
第二章独立独歩、才覚のおもむくまま
服部長七翁は、天保11年(1840)9月9日、愛知県碧海郡棚尾村西山(現碧南市西山町)に生まれました。 16才の春、父が亡くなり、長七は一家4人の暮らしを支える身となりました。新川での豆腐屋の開業、一年を経て桑名での左官の修行、新川での左官屋としての独立、そして、身体の内からわき上がる起業への克己止み難く、桑名での醸造業を皮切りに、饅頭店「虎屋饅頭店」を開業、才覚のおもむくまま意気に溢れた青春時代を送りました。 34才になった長七は地元で稼いだ資金を元手として、明治7年(1874)、いよいよ帝都に上京。日本橋区南伝馬町で、あの虎屋饅頭店を再び開店、持ち前のアイデアと人一倍の努力で、ほどなくしてたちまち繁昌店となりました。
第三章長七たたき「人造石」発明
ある雨の日、長七は水道水の汚れから水源の不潔きわまる状況を知り、若年の頃より養った左官の血が騒ぎ出します。そして、左官の技を活かした上水道の改良が出来るのではないかと考えつきます。 水を濾過する漉水器をたたきで作る考案をした長七、しばらく不遇の時を囲ったものの、良心的且つ丁寧な仕事振りが評価され、天皇陛下の御学問所改築のたたき工事、木戸孝允、大久保利通らの邸宅工事などを次々と請け負い、長七の信用は益々高いものとなって行きました。 明治9年(1876)、「長七たたき」がついに発明されました。水中でも固まる人造石の特性から、海岸や河川の堤防工事に使用できるのではと長七は考えました。
第四章品川弥二郎子爵と出会う
明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会に土の技術を使った製品を出品し鳳紋賞牌を受賞。賞牌受賞は彼にとって晴れがましいことでしたが、それにも増す運命的な出会いが長七を待っていました。
長七は、会場入口の泉水池の工事を請け負っていました。ところが泉水池の工事の指定工法は、池の噴水がきちんと機能しないことが予想される、ずさんな計画だったことを長七は見抜いていました。
泉水池の係官に工法の変更を進言しますが、取り合ってもらえません。やむなく指定通りに工事を行ったものの、結果を予想した通りとなりました。しかし、長七は無理な工法の指示があったことなど全てを飲み込んで工事を施工を期日までにやり直しました。泉水池は完成、その噴水は博覧会の目玉のひとつとなりました。この時の担当の係長が後の子爵、品川弥二郎公です。
「私利を顧みず、後の事を案じ万全の策を講じておくとは実に見上げた男である」品川公は長七を高く評価し、その後、長七たたき(人造石)を駆使し、国家的大工事に挑戦する長七翁の後ろ楯となりました。
第五章岡崎・夫婦橋架け替え工事
明治十一年(一八七八)、既に土木技術者として頭角を表していた服部長七は、愛知県の命を受け、明治天皇行幸のための岡崎「夫婦橋」架け替えの工事に着手しました。
水に強い人造石工法を用いた工事は難なく進むものと思われました。
工事の無事竣工を祈るため、岩津天満宮に参籠。その満願の日、長七は岩津の天神様が橋の欠陥を告げる夢を見ます。急いで現場に戻った長七は、お告げにあった欠陥を発見しました。こうして「夫婦橋」は無事完成し、大いに面目を施しました。
渡り初めの三日後、明治天皇巡幸の先発として、宮内省の官吏が夫婦橋を通りかかりました。見事な橋の出来映えに感嘆した官吏は、築造者の名を聞き、服部長七の名は深く記憶されることとなりました。
長七の神仏への深い崇敬心は母譲りのもの。岩津天満宮への崇敬の念は益々厚くなり、晩年その復興に尽力することになる理由は、この時の体験が元になっています。
夫婦橋想像図
長さ20間×巾3間半(長さ約36m×巾約6m30cm)
第六章国家事業 広島の宇品築港に携わる
「たたき屋長七」の名はいよいよ高まり、また、品川弥二郎子爵の有力な後ろ楯を得て、その事業は拡大の一途をたどっていました。
服部新田堤防工事(現在の愛知県高浜市)を始めとし、豊橋・神野新田の築堤工事、愛媛県三津浜、名古屋築港、四日市築港(長七翁考案の潮吹き防波堤・国の重要文化財)、台湾総督府の嘱託として基隆港の改築工事設計など、着々と成果をあげる仕事の数々は全国にまたがっています。 中でも特筆をされるのは、国家的事業、広島県宇品築港工事です。
明治13年、時の広島県令(今の県知事)千田貞暁公が赴任の初日に築港を思い立ったのが事のはじまりでした。
当初、工事計画はフランス人技士ムルテルにより立案されていていました。しかし、予算の関係上ムルテル案の実施は難しく、そこで浮上したのが服部長七の名前でした。
多くの実績を積んでいたとは言え、これ程の大工事は初めての長七に対し、内務省側は相当な難色を示したと言われています。しかし、ひとつひとつ理路整然と、しかも実地調査に基づいた長七の綿密な計画提案に対し、ついに内務省も許可を与えることになります。その当時の長七の行動を伝えるエピソードがあります。
広島県側は、ムルテル案と見積りの安い長七案に相当な開きがあるのを不信に思い、長七に再度の調査を命じました。
そこで、長七が行ったのは調査と称した宇品沖での釣りでした。調査報告の期限の日、県庁に出頭した長七に対し、県側はその無責任を詰問しました。しかし、長七は平然とこう答えました。
「私の釣りの目的は魚ではなく草鞋でした。草鞋が釣れるということは、宇品の海の潮流はさほどではないということです。ムルテル氏は、潮流の強さを読み違えているため、見積りが非常に高くなっているのです。私は工事の予定場所の潮水の方向と緩急を綿密に調査し、改めて自分の案の正しさを確認したのです。」
千田県令をはじめ県側は、長七の思慮の尋常ではないことに驚愕したと広島県発行の「千田知事と宇品港」は伝えています。 以降、自然災害に見舞われながら、苦難の5年3ヶ月を要し宇品港は明治22年11月に完成しました。
第七章翁最後の仕事は岩津天満宮復興
大正6年(1917)、翁ゆかりの人々がその業績を後世に残すため、岩津天満宮境内に遐寿碑を建立しました。篆額は渡辺渡工学博士、撰文並びに書は、漢学者・織田完之翁がこれにあたりました。
碑文が語ります。「その才能は天が授けたものであり、人造石によって名をあげ、常に国のために力を尽した翁を、錚々たる人々が讃えている」と。 『服部長七伝』の著者・中根仙吉氏は、「我が国産業革命前期をになう職人技術家の一人として長七はその一生を、我が国資本主義発達途上に大きな業績を残していったのである。」と翁の生涯を賞讃しました。
大正8年(1919)7月18日、波乱万丈の道を歩んだ服部長七翁は八十歳の生涯を、その最後の仕事として復興に尽力した岩津天満宮にて終えました。
岩津天満宮は幼い頃より神仏を敬うことの厚かった長七翁の、終の場としてまさにふさわしいものでした。
翁の死後、およそ一世紀を経て、世界遺産・アンコール遺跡修復に長七たたきの技が活用されました。それは、偶然の産物ではなく、長七翁の精神が今もなお、形を伴い脈々と受け継がれている証です。
服部長七は偉大な足跡と共に、岩津天満宮・中興の祖と仰がれるようになりました。
毎年、命日である7月18日には、翁の偉大な業績を偲び、併せて卓越した技術者であった服部長七にちなみ、さらなる技の上達を祈願する「長七忌・道具供養祭」を斎行しています。