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ご由緒

ご由緒

自然の氣溢れ強い霊験と
霊威に満ちた岩津天神

岩津は聖なる地。六十を越える古墳に眠る古人の慰霊の祭祀を行ってきた場所でした。
岩津の天神様は一条の雷光と共に天神山に降臨され、時代は下り江戸の頃、鎌倉・荏柄山天満宮よりご分霊をお迎えし「我を四辺眺望の地に祀るべし」とのお告げにより、聖地・天神山の頂に祀られました。

岩津天神

京都は風水・四神相応の理(ことわり)により造られた都です。
四神相応とはすなわち、東に青龍、川の流れがあること。西に白虎、大道があり交通の便が良いこと。南に朱雀、平野や海があること。北に玄武、山や丘陵を有す。
このような風水上最高の地を「四神相応の地」と言いました。

一方、岩津天満宮は、東に矢作川の支流である青木川。
西に古は東海道(現在は国道一号線、そして伊勢湾岸道)。
南に岡崎平野。北に村積山をはじめとする三河北部の山々の中心に御鎮座。
まさにここは、自然の氣が満ち満ちた四神相応の地であったのです。
さらに、熱田神宮と三河国一宮砥鹿神社奥宮を結ぶ線上の中央に岩津天満宮が位置するのも偶然ではありません。

岩津天神
天神様岩津山に降り立つ

東山梅苑の芭蕉の葉 
天神様は芭蕉の葉に乗り天神山に降臨された

天神様岩津山に降り立つ

ここ岩津の里には、里の長(おさ)たちのものと言われる古墳があります。
その昔、死者は里よりも高いところに葬られ、死者の霊は次第に浄められ、里を守る祖霊となりました。多くの古墳が存在する岩津山は、古の人々にとっての聖なる場所でした。

一条の稲光と共に、芭蕉の葉に乗った菅原道真公の御神霊がこの聖なる岩津山に降り立ちました。菅公の御神霊と土地を守る祖霊が出会い、岩津山は菅公の御神徳と霊気満ち満ちた霊山・天神山となりました。

菅原道真公

天神様降臨図

我を四辺眺望の地に祀るべし

徳川氏の祖となる松平信光公創建の信光明寺、その22世は一誉上人。
徳川将軍家に縁深い寺の住職として、将軍拝賀のため江戸へ向かいますが、旅の途中、病に倒れてしまいます。土地の人の勧めで天満宮へ病気回復を心中祈願したところ、病はたちどころに癒え、将軍家への拝謁を無事済ませることができました。
霊験に感謝した上人は、江戸よりの帰途、鎌倉・荏柄山天満宮を参拝し、御分霊をいただき岩津に戻って参りました。
御分霊は信光明寺の観音堂に一旦祀られましたが、ある夜、上人の夢枕に天神様が立たれ「我を 四辺眺望の地に 祀るべし」との御神託を告げられたのです。
こうして岩津山の頂きに神祠が建立され、岩津天満宮が創建されました。ときに宝暦9年(1759)、この後、信光明寺歴代上人の布教努力により、病除けという岩津天満宮独特の信仰が広められたのです。

信光明寺鐘楼の葵の紋

松平ゆかりの
信光明寺の葵の紋

菅原道真公

岩津天満宮境内の「芭蕉天満宮」燈籠は
文化11年(1814)に建立された

天神様岩津山に降り立つ

中興

人造石を発明した稀代の技術者として、品川弥二郎子爵をはじめ、明治の錚々たる人々に服部長七の名は知られ始めた頃。
明治11年(1878)、39歳の長七は愛知県・岡崎の夫婦橋の掛けかえ工事を請け負いました。この工事は明治天皇ご巡幸を控えての大変重要な仕事でした。完成直前のある日、長七は夢とも幻ともつかない光に包まれます。神仏よりの奇瑞を感じた長七は一旦工事を止め、霊験あらたかの評判の高い岩津天満宮で工事竣功のための参籠を行うことにしました。満願の朝、長七の夢枕に白衣の老人が立ち、「夫婦橋の工事には欠陥がある。特に水中を吟味せよ。」
と長七に告げます。
長七は天神様のお告げの通り、全員総掛かりで水中を探したところ、やはり欠陥が見つかりました。昼夜兼行で夫婦橋を完成させ、その誠実無比の仕事ぶりは、長七の名をさらに高いものとしたのです。
この後長七は、国家的な土木事業に活躍の場を広げますが、およそ二十年後再び岩津天満宮と深くまみえ、中興の祖と仰がれるようになりました。

越中立山と天神山

越中(今の富山県)立山は 富士山・白山と並ぶ日本三霊山のひとつです。
ここに立山の山岳信仰の拠点・芦峅寺(あしくらじ)があります。開山の祖は佐伯有頼。
以来、佐伯家は連綿と立山信仰を伝え守り、明治時代は大阿闍梨・佐伯鑁禪師(芦峅寺・善道坊)がその佐伯家を受け継いでおられました。

岩津天満宮は明治の神仏分離により信光明寺の所管より離れ、岩津村の人々によって管理されていましたが、明治12年、火災によって堂宇の全てを失ってしまいました。
丁度この頃、大阿闍梨・鑁禪師は三河で布教をしており、荒れ果てた岩津天満宮を訪れたのです。霊山・立山で修験の道を究めた師は、天神山に鎮まる御神霊の力や、ただならぬ岩津天満宮の濃密な霊気を感じ、天神山復興を決意されました。

天神山の森に佇む石仏

天神山の森に佇む石仏

大阿闍梨・鑁禪師

岩津天満宮を訪れた大阿闍梨・鑁禪師
(写真中央)

岩津天神中興の祖

岩津天神中興の祖・
服部長七翁

この頃、還暦を迎えた服部長七は郷里である碧南・新川に居を構えていました。
この新川の邸宅こそ、大阿闍梨・鑁禪師の三河布教の折の常宿となっていました。
鑁禪師は岩津天満宮の窮状を詳しく語り、その復興支援を長七に頼み込みました。

長七自身神仏への思いがことのほか深く、また夫婦橋工事にまつわる、岩津天満宮での不思議な出来事を鮮やかに思い出した長七は支援の依頼を一も二もなく快諾しました。
単に資金援助にとどまらず、師と共に奔走、途中からは自らも天満宮に住み込み、岩津天満宮の再興におよそ20年に亘る再興事業に残りの人生をすべて注ぎました。
大正8年(1919)、現在に残る拝殿の造営を成し遂げ、岩津天満宮中興の祖・服部長七翁は境内の一隅で帰幽、享年80 歳でした。

服部長七翁

岩津天満宮中興の祖・服部長七翁

岩津天満宮は
天神様の御神霊が
鎮まる天神山に
御神徳に導かれた人々が
魂を注ぎ築き上げた
篤き信仰の場です

岩津天満宮

御祭神 菅原道真公

天満宮は、菅原道真公をおまつりする神社です。
天神様・菅原道真公は平安時代に京の都でお生まれになりました。
小さい頃より勉学に励み学問を究められ、帝より右大臣の位を賜るまでになられたのです。ところが、無実の罪で九州太宰府に左遷されてしまいました。
しかし、配所にあってもひたすらに日本の国の平安と皇室の安泰を祈られ、誠心(まことごころ)を常にお持ちになられておりました。延喜3年(903)2月25日、失意の内に59歳のご生涯を終えられました。墓所は現在の太宰府天満宮です。

菅原道真公
学問の神様 道真公が学業の神様として広く親しまれるようになったのは江戸時代の寺子屋から。
そして現在にいたるまで、学問の守り神として強い信仰を集めています。
ご神徳 岩津天神と呼ばれ親しまれてきた歴史を通し、病除(やまいよけ)、厄除(やくよけ)や方除(ほうよけ)の神様、夢を叶える神様としての独自の信仰があります。
特に病除は岩津天神独特のご神徳です。
信光明寺・一誉上人の病を癒した岩津の天神様は、江戸時代より病除けの神様としての信仰を集め、トヨタ自動車の礎を築いた豊田佐吉翁も、湖西より往復100キロの道のりを歩き、病除け健康を祈願されました。
また天神さまは子どもの神様でもあることから安産のご利益があります。